昭和42年07月03日 朝の御理解
今朝の神様への御祈念の時に、こう言う様なお知らせを頂きました。「元一九八年」と言う事を頂いた。紀元198年、どう言う様な年柄に当たるのだろうかと私は思ったけれども全然自分に記憶が無い。それで是は何時もの様に、文字から判断さして下さる御理解だなぁと思いましたから、紀元と言う事は元の起こりと言う事。198年とひとつの苦労が末広、八の字です、ひとつの苦労が末広の元になると言う事。と私は思った。思った途端で御座いました。
もう本当にあの今朝の朝の御祈念を、始から頂いとった方は頂いたでしょうが、大きなおいさみが御座いましたですね。紀元198年ここん所は本当に、良く解らなきゃいけんと思うですね。紀元一九八年紀元と言うのはいわゆる事の起こりと言う事。ひとつの難儀問題と言うのには、必ずしも元があっての事だと言う事。先ずそこを知らにゃいけません。どうしてと言う事は無いわけでしょう。
ですからそれを言うならば、本当にやれ痛みや今みかげをよ、と言う心にならなければおられん。病気であろうが様々な人間関係の苦しみであろうが、その苦しみというのはね、もう当然受けなければならない、元があっておこっておるんだと言う事。ですから今もし苦しいとするならば、その言うならば罪の償いが、出来ておるのであるから、いわば借金払いが出来ておるのであるから、有り難いのである。やれ痛みや今みかげをよ、という心になれよとこう。
そこん所をです信心さして頂く者と信心さして頂かない者の違いというのは頃をです、そこからが違うて来るんだ。苦労を苦労として受ける。だから信心しておっても苦労を苦労と受ければ同じ事なんだ。けれども苦労を苦労とせずにその苦労をお取り払いと頂く。その苦労を所謂やれ痛みや、今霊験をよという心になる。その一つの苦労が所謂198年というのは、一つの苦労がその苦労が、お徳を頂く元になりおかげを頂く元になり、末広のおかげを頂く元になっていくのぞと言う事。
ここの所がだから信心のある者と無い者の違いがある。だから信心を頂いておりましても、そこん所を例えば、難儀は難儀、苦労は苦労で、受けて行ったら同じ事なんだ。成る程お取次を頂いてお願いをさし貰うて、おかげを頂くと言う事はありましょうけれども、いわゆる末広がりのおかげにゃならん。八の字のおかげにゃならん。8の字と言うのはこうなっとるでしょうが、八の字のお知らせは末広とこう仰る。事の始に八の字のついた日にしたら縁起が良か。と言った様な事をもうしましょうが。
八の字一九、九というのは苦労の事。九というひとつの苦労と言う物が、それがおかげの元になるのぞと言う事。だから如何にその事を大事にしなければならないか。何故大事にしなければならないか、その起源というのはその起こって来る元というのは、矢っ張り、自分の先祖伝来から言うなら伝わって来ためぐりであろう。いわゆる家のめぐりもあろう。身のめぐりもあろうと言う事。だからどうでもそのなら現在難儀であると言う例えば、なら今日こうしてお湿りがあっておるならです。
そのお湿りを如何に有り難く頂こうかと、今日の御日照りを如何に有り難く頂こうかという。頂かして頂くかと言う事に、心を置かなければいけない。ああ暑か暑かああ雨の降りはしるしか、しゅるしかというておったんでは、おかげにならない道なんだ。おかげおかげで開かれた道じゃから、おかげでは苦労はさせんと、私は教祖の神様はそういう言葉で仰られるだろうと思う。そういう御教えでは御座いませんがね。
この方の道は喜びで開かれた道だから、喜びでは苦労はさせんと仰る御教えはありますけれども、私はそれを思うんです。ハァおかげですよと。何もかもおかげおかげでいけばです、おかげの道が開けるのですそれを自分で難儀の元をつくっておりながら、自分でその難儀を難儀に背負うてしまう。その難儀成る様自分で作っためぐりなら負われもせなならん、成る程自分で作った物なら自分が借金払いをするほかにない。
でそのめぐりが取り払われて、まあ言うならば、罪なら罪が段々それによって痛いなら痛い。苦しいなら苦しいと言う事によって、なくなっていきよるのであるから、御礼を申し上げねばならんと言う事が分かるでしょうが。例えばこの雨の中を皆さんがお参りをしてみえれる。自動車で参って来る人は本当に自動車のおかげでこの、お湿りをついて参って来るが、それこそ傘も要らんでお参りが出来るのである。
雨靴はいて雨具を着て傘さしてお参りしてくる人は、ほんとにこの雨具のおかげで長靴のおかげで、足を汚さんですむ、濡れんですむというて、御礼をいうて来たらいいのである。おかげで修行が出来ますというて、御礼をいうて来たらいいのである。もうチョイと雨ん降る道の悪なってざまなか。もうチョイとしゅるしかのうやと、言う様な事ではいけないと言う事。ことごとにおかげをおかげと頂かせて貰う、事毎に有り難い、有り難いというて、さして貰うと言う事にです。
もう一時が万事に焦点をおいて日々の生活を進めて行ったらいいと言うのが、御道の信心、どうしてじゃろかと言う事はない。神様がこうしておかげを下さるんだと、こうしてお取り払いを下さるんだと、こうして磨かして下さるんだ。改まらして下さるんだと頂いたら、御礼が言えるのである。それをただそう言うとかなければ、ならんと言うのじゃなくて、それに起源があるて、元があるて、紀元一九八年である。
昨日月の内に何回か参って参りますが、始ご主人がが参って来よった。泊まり掛けでお参りをして来ます。昨日は主人が忙しいからというて奥さんが参って参りました。福岡の田舎の方です。もうとにかく終のバスで帰りましてももう福岡までは行けるけど、そこから先が乗り物がないと言う様にへんぴな所なんです。建具屋さんひとつのその難儀がある。というのはです、ご長男がですね、非常に働き者で、いい人なんですけれどもね、お酒を頂きすぎますとその乱れて来るいわゆる酒乱なんだ。
それこそもうえずかもんのなかごつなって来る。でそれが、まっ、両親の悩みの種である。それをお願いされる。この頃もご主人が忙しいからというて参って来れずに、奥さんが参って見えた。そして昨日も奥さんじゃったがです。昨日御礼にでて参りましてから、先生ああしてお取次を頂いてお願いをさして頂いとりましたら、先生もう不思議なおかげを頂よりますという。先生息子がこの頃ですね、お酒を自分で計って飲む様になりました。というもう自分のですね。
はぁ是以上飲んだら乱れるというてそのやるらしい。自分で計って飲む、先生それが又不思議な事何ですというて。昨日お届けをされるんですよね、一合飲んだらね一合飲んだらくしゃみが出だすそうです。くしゃみがもう連続的にでる。自分な始は気が付かなかった。ところが丁度一合飲んだらくしゃみが出る。二合飲んだら手のひらが痒くなるげな。不思議な事ですね、三合飲んだらもう乱れて来る。
だからもう今は一合に決めとります。せいぜいお客さんのある時には二合、俺はもう手の平の痒うなったからちいうて止めるそうです。丁度二合位飲んだ時に手のひらが痒くなる。一合飲んだらくしゃみが出る。神様のおかげと言うのはね、それがならどう言う所なら、ならそういうおかげを頂いたかと言うとです、私がね、ほんと家の息子はそのお酒を飲むから、お酒で何時も失敗をすると親が事わりいうて回らんならん事やら、借金をそんたの作ったり、他人に迷惑かけたりする。
もうとにかく難儀な事である。もうとにかく酒さえ止めてくれれば良い、という願いであり、思いでばっかりであった。ところがここで御理解を頂かして頂いてですたい、しかし酒を頂かん時だけはあげん真面目で、あげん立派にその人からも好かれる人物であり、一生懸命働くと言う事をです、とにかく一生懸命御礼申し上げれと先生が仰ったから。その事を一生懸命御礼申し上げた。
そして皆様にお粗末、御無礼が起こる様な事のない様に、神様にご無礼が起こる事が無い様に、適量のおかげを頂かして下され、と言う様な願いになって来た。いわゆる困った難儀であると、言う事に対して御礼が言えれる様になったと言う事である。所がもう本当に聞いとって、本当じゃろかと言うような、不思議なおかげが現れて来た。自分でそれを分かる様になった。
いや自分が分かろうとしないでも、神様が分からして下さる、と言う様なお繰り合わせを頂いた。一合飲んだらくしゃみが出る。続いて出るそうです。二合飲んだら手の平が痒くなる。そう言う様なひとつのおかげ話から考えましてもです、お取り払いをお取り払いとして頂いておかげをおかげとして頂けて、それから道が開ける、おかげを受けられると云う事が分かるのですが、お互い困った事だ。
難儀な事だと云うておる事の中に、おかげでと何処にかひとつ、まぁおかげでと云えれる心から、御礼の言えれるおかげを、頂かして貰うて行くと言う事が、おかげを頂く元になるのだと、言う事が分かります。自分で作っているんですからね。その苦しみの元というのは、他人が作ったんじゃ無いですから、自分が刈り取る他はなでしょうが、痛いなら痛いで本当に、やれ痛や今霊験をよ。
という心になるより他にないでしょうが、紀元一九八年とどう言う様な御理解であろうかと、神様が教えて下さったけれど分からなかった。ははぁ是は何時もの様に文字の中から御理解下さるだろうとこう思うて、紀元と言う事の起こり難儀の元と言うのは、必ず家にあり身にあるのだ。よそから来たもんじゃない。ですからならその難儀が苦労がですひとつの苦労をです、有り難く頂かせて頂くと言う事がです、その事を御礼申し上げる様な、心持ちになると言う事がです。
その事をおかげとして取って行くおかげ、おかげで取って行くと言う事がです、それが徳の元になり、おかげの元になると言うのですから難儀も又、実を言うたら歓迎したいごたる気持ちがするじゃないですか。信心さして頂いておかげを頂かせて貰う、後々は自分から求めて修行するじゃないですか、水行がひとつ火や水の行すらするじゃないですか。ですから日常生活の上に、起きて来るその火や水の行にも、匹敵する様な行を行として受けて行くのである。それがもう間違いのない受け方なんだ。
生き方なんだ。そこにおかげが頂けるだけじゃなくて、お徳の頂けれる道がある。どうぞ紀元一九八年、皆さんその事をもう少し皆さんの、信心でねって御覧なさいませ。そして今まで困った事、難儀な事と思うておった事をです、困った事じゃなかった。この様なおかげを頂いておるのに、難儀を不平不足ををいうて神様相済みませんと言う様な心にならせて頂いたら、只今の福岡の方のお話じゃないですけれども、そういうおかげになって来た。おかげを受けると同時に徳を受けていけれる道なのです。
どうぞ。